大斎節第5主日
「だが、死ねば多くの実を結ぶ」というイエス・キリストの言葉は意味深いものです。一粒の麦が身を献げ尽くして他者へとひらかれて前に進むときに、大きな影響力がおよぼされるからです。
人間のいのちが自分だけのために用いられるだけならば、そのいのちは閉じられたままで終わります。しかし、人間のいのちが他者のために用いられるのならば、個人のいのちの善さが開かれて広がり、あらゆる人が善い影響を受けることになります。
イエス・キリストの生き方は、他者に対して自分のいのちを惜しみなく分かち与えることでした。いまから二千年前にイエス・キリストが十字架の上で全世界に向かっていのちを与え尽くした出来事は、自分の身を「種」としてあらゆる人に捧げることで、他者を勇気づけて活かす、広がりのある寛大な愛情表現でした。
将来に備えて、自分を「種」として相手に与えることで、そのいのちの呼びかけを受け容れた相手が豊かに成長することになります。先を見据えて、自分を「踏み台」として差し出すことで後につづく若い者たちを飛躍させる先駆者の積極的な姿勢こそが、物事を発展させる「はじまり」なのです。「種」・「踏み台」・「はじまり」は、使徒書では「永遠の救いの源」として説明されています。そして、旧約聖書では「新しい契約」という言いかたも出てきます。相手の将来を案じて愛情を示そうとする神の配慮の仕方が、「新しい契約」として説明されているのです。私たち人間も神の配慮の仕方にならって、相手の将来を案じて愛情を示す態度を選ぶことができる能力を備えています。
イエス・キリストはギリシア人たちが面会を求めて近づいてきたときに、弟子たちを橋渡し役として連絡をとらせました。洗礼を受けた私たちも、弟子としてイエス・キリストの声を他者に伝える橋渡し役として、今日、活動するように招かれています。私たちは自分のためだけに生きる狭い生き方から解放されて、他者を助けることに身を投じてゆくだけの寛大さを見直すように、この大斎節の日々を過ごしているのです。
ヨハネによる福音書12章20-33節
2024年3月17日