復活前主日

今日の福音で一番心に残ったのは、「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」というみ言葉です。「なぜ百人隊長はイエスが神の子だったと確信できたのだろう」と心にひっかかりました。私はこのみ言葉を、百人隊長のようにイエスの方を向いてそばに立ち、イエスがこのように息を引き取られたのを眺めながら、思い巡らし、祈ることにしました。このみ言葉を数回読んでまず感じたことは、ここに登場する人たちの姿は三種類あるのではないか、ということです。祭司長たちの悪の力が人々を巻き込み、大きな罪となっていく有様、公正な裁判を行うはずだったピラトが罪を犯す有様。そして外の悪の力や騒々しさ、身体の苦痛の世界とはまったく違う、御父への信頼の内に深い沈黙の中におられるイエスの在り方です。
ピラトは「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだとか分かっていたからである」とあります。ねたみは、嬉しい、悲しい、怖いなど、あるきっかけで湧き上がる感情です。誰でも生活の中で体験します。私たちは特にねたみなどネガティブな感情が湧き上がってきたとき、「イエスの方を向き、そばに立って」その感情を振り返り、神が私に何を語っておられるのか、「イエスがこのように息を引き取られた」ことと、どのようにつながっているのかも祈ってみる必要があるのではないでしょうか。わたしには、祭司長たちのねたみは祈りを通さず外に出て、集まり、様々な罪になっていったように見えました。
「イエスはもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った」とあります。わたしは「不思議な」感覚は神がすぐそばにいらっしゃるときに感じるような気がします。このかすかな感覚も、感情への祈りと同じように祈っていきたいと願っています。ピラトはせっかくの神からのメッセージを祈らず、罪を犯してしまったのではないでしょうか。この百人隊長の姿は、今を生きる神を信じきれない弱い私たちが、どのように祈れば良いのかを教えてくれているようです。

マルコによる福音書15章1-39節

2024年3月24日