復活日

イエス・キリストの死と復活。
洗礼を受けてからずっと、自分の生き方の土台を築き、指針となってきたこの言葉。この不思議な言葉に魅せられたのか、包まれたのか……どんな素晴らしい神学的な説明を聴いたとしても、けっして納得することはできない。
ただ、この言葉のもつ不思議な力だけで十分だと思えてしまう。この言葉が神話のような作り話の言葉なのではなく、実際にそれが出来事として生起し、それを見て、触れ、自分の生き方が変わってしまった人びとが存在し、その人びとが命をかけて語り継いだ、その経験の連続性がこのわたし自身にまで及んでいる、それが分かる、それを感じる、それを祈ることができる…… イエス・キリストの死と復活。
マルコの福音16章の冒頭、週の初めの日の朝早く、朝日を浴びて女たちは墓の前にいる。
墓、死者の埋葬される場所だ。遺体が安置されているはず。十字架の仕打ちで傷ついたイエスの亡骸が横たわっているはず。苦しみと痛みのどん底で死んでいったあの人、イエスのそばにいたい。
死は、圧倒的なメッセージを人びとに投げかける。誰も死を回避することはできないのだ、というメッセージ。イエスはヒーロー、皆がすごいと言っていた。イエスとともに、永遠の命に生きると。けれども、彼は死んだ。すべての人間と同じように。
「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかれる。」
あの日、墓のまわりの女たちが理解できなかったこの意味を、二千年後に生きるわたしたちは理解できるはずだ。イエスの後の世の先人やこの罪深いわたしのために、イエスは死んで、復活されたのだから。わたしたちの心を燃やし、生きる力を与え続け、ずっと、ともにいてくださるのだから。あの日の彼女たちにイエスとともに生きているわたしたちの証しを伝えてみよう、今日の復活の日に。

マルコによる福音書16章1-8節

2024年3月31日

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