「永遠の春」

イースターおめでとうございます。

今年は寒い日が続き、ようやく桜も咲き始めた中でイースターを迎えています。桜の花も主のご復活をお祝いしているかのように感じます。

この冬の寒さを乗り越えて迎えた今年の春は、ことのほか主のご復活を祝うのに、ふさわしく感じられます。

この季節に教会が祝う主のご復活は、主キリストの死から復活への過ぎ越しを記念する祭りです。教会はこの過ぎ越しと呼ばれる祭りを旧約の神の民から受け継ぎました。旧約の神の民にとって過ぎ越しの祭りは、彼らの祖先が経験した神の大いなる救いのみ業を記念する祭りでした。

主のご復活は、一年で最も華やぐこの季節私たちを包む春の訪れのようです。春は突然やって来ます。ある日気がつくと、春に包まれているのです。春はゆっくりと近づいていると分かっていても、その日が来るまでは余計に寒さがつのります。そして春の嵐が来ます。そんな日々の中で、気がつくと、春は突然に私たちを包むのです。

ヨハネによる復活の記事の中で、復活のイエスさまはマリアに呼びかけています。「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で『ラボニ』と言った。『先生』という意味である。」(ヨハネ20:16)。

福音書が告げる主の復活も、そんな春の訪れのように感じられないでしょうか。エマオに向かった二人の弟子は、道連れになってくださったイエスをイエスだとは気付きませんでした。マグダラのマリアもそうでした。彼女は背後から声をかけてくださったイエスを園丁だとばかり思っていたのでした。イエスはそこに来てくださっているのに、彼らはそれ に気付かなかったのです。エマオの宿で、食卓に着かれたイエスがパンを裂き与えてくださったとき、背後に立たれたイエスが「マリア」と呼びかけてくださったとき、春は突然に訪れたのです。自分たちに 訪れたその春に包まれたとき、彼らはもはや復活のイエスのお姿を必要とはしないかのようです。彼らを包む春は、復活のイエスによって もたらされたことが彼らには分かっていたからです。

 春の訪れは、私たちがそれを実感する前に、ニュースとなってもたらされます。エルサレムの弟子たちにとってもそうでした。けれども、 エマオから戻って来た弟子たちの話を聴いても、マグダラのマリアの 知らせを受けても、彼らの部屋は内側から鍵がかけられたままでした。 春の訪れは外からもたらされるのです。閉じられた扉をものともしない春の訪れの中で、弟子たちは復活の主のいのちの息吹を受けたのです。このときから彼らは、繰り返される季節の移ろいの中で、彼らが体感した永遠の春の喜びを告げる者たちとされていったのです。私たちの心が外側から開かれるとき、主のご復活をお祝いする私たちは、永遠の春の花々に包まれるのです。

2024年3月31日発行
西宮聖ペテロ教会 教報ともしび 第181号

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