聖霊降臨後第17主日
「メシア」としてのイエス。「メシア」とは「神によって油を注がれた者」のことです。つまり、「神から特別に選ばれて大きな役目を授けられた者」として、イエスは弟子たちを集めたのです。神は独り子イエスを派遣することで、この世のあらゆる人を救おうとされます。
イエスは常に「神のことをおもう」生き方を続けます。しかし、ペトロをはじめとする弟子たちは常に「人間のことをおもっている」だけです。ペトロは一瞬だけ成功しました。ペトロは、イエスを「メシア」として認める信仰告白を公の場で口にすることができたからです。しかし、次の瞬間、ペトロは人間的な老婆心によってイエスをいさめはじめます。このようなペトロの姿勢は、イエスのまねをして嵐の吹き荒れたガリラヤ湖の水上を歩こうとして一瞬だけ前に進みながらも、次の瞬間はあえなく沈み込んでおぼれてしまったときと同じです。つまり、ペトロは常に表面的な成功を一瞬だけおさめて、あとはなすすべもなく撃沈するような生き方しかできていなかったわけです。
私たちも心のなかを眺めてみれば、ペトロと似ていることがよくわかるはずです。常にイエスに従って他者を救う貴重な働きをこなすことが難しいからです。私たちはほんとうの生き方の理想を頭で理解しているだけで、実際に行動に移すことは至難のわざなのです。それでも、イエスは弟子たちを大切に招いて後継者として認めます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」というイエスの呼びかけは、「人間のおもい」を捨てて「神のおもい」を選ぶべきことを私たちに告げています。イザヤの預言において示されているように、他者から迫害されたとしても決して負けることなく、強く生きる覚悟を決める必要があります。
決然として生きる、ほんものの弟子としてキリストの後をたどることが、二千年続いている教会の唯一の道です。それは、誰かを助けて、ともに生きることを喜び合うような「まことの家族」としての歩みでもあります。
マルコによる福音書8章27ー38節
2024年9月15日