聖霊降臨後第17主日

「この人たちは1時間、この人たちは3時間働いて、最初から働いていた人たちはきっと8時間以上働いていたんだ」と考えていると、もう一人の私がそんな私を静かに見つめていることに気がつきました。その瞬間、御言葉を自分の価値観で読んでいることにも気がつきました。
私は聖書の前で瞑想し、心が静まるのを待ちました。そして、深い静まりの中でゆっくり御言葉を味わいました。すると、働く者を雇うために夜明けに自ら出かけていく主人、最初に雇われ不平を言う人を「友よ」と呼ぶ主人の慈しみと愛が心に満ちてきました。神は私たちより先に私たちを探し求めてくださる。共に働く仲間を蔑み、自己中心的な生き方を主張する私たちを罰するどころか、「友」と呼んでくださる。深い静まりの中で、私の体にも神の慈しみと愛が満ちてきます。この愛に応えたい。と心が動いたとき、「立っている」という御言葉が心に留まりました。いくら待っても雇ってくれる人が現れないなら、座りこんでしまうのではないか。ネガティブな感情に身も心も支配されてしまうのではないか。しかし、彼らは「立っていた」のです。そして神に雇われました。日常生活の中でネガティブな感情や無気力、絶望に陥ることは誰にでもあることです。そのようなとき、沈黙と静けさの中で、もう一人の私が「私」を静かに見つめ祈るとき、そのまなざしは慈しみ深い神のまなざしと重なるような感じがします。そしてその神のまなざしに力づけられ、「立つ」ことができ、絶望のときも神を待つ自分になれるのではないでしょうか。
「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と答える主人。神の時間は、過去、現在、未来と流れていく私たちの時間とは違うようです。全ての人にアガぺの愛を注がれる神、「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている(イザヤ55:9)」のです。どのような状況にあっても、神の慈しみのまなざしを感じながら、神のアガぺの愛に信頼し希望を持って生きるとき、天の国はそこに実現しているのではないでしょうか。

マタイによる福音書20章1-16節

2023年9月24日