大斎節第4主日
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」これは、サムエル記上に登場する印象深い言葉です。主である神のまなざしは相手の「心」に向けられているわけです。そして、人間によるまなざしは「目に映ること」に集中するだけで、相手の心の深みには入れないままで、表面的な理解にとどまります。
私たちは、どうでしょうか。果たして神のようなまなざしで物事をながめているでしょうか。それとも、浅はかな表面上の華やかさに惑わされて、物事の核心に迫れないままで、あんのんと時を過ごしているのかもしれません。表面上の動きだけにこだわって、相手の心の奥深くには理解を示そうとしない未熟さをかかえていたのが、ファリサイ派や律法学者たちでした。しかし、イエス・キリストは神のまなざしをじゅうぶんに理解して、同じように相手をながめていました。
相手の行く末を丁寧に案じて、時間をかけて育む神の姿勢を、神の独り子イエス・キリストもまた丁寧に受け継いで、弟子たちを召し出したのですが、さらに現代の弟子である私たちキリスト者もまた、同じまなざしを受け継ぐように呼ばれています。そのことを、聖パウロがエフェソ書のなかで説明しています。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」この文章は、まさに表面的なまなざしから心の内側に迫るまことのまなざしへと人生を深めた者たちの長所を述べています。
ヨハネ福音書で描かれている、目の見えない人は、見えない状態から見える状態へと過ぎ越して解放されることを望んでいました。まさにキリストという光を受け容れて、光を通すまなざしを得ることで、自らも光としてあらゆるものに向き合う様子が伝わります。そのことは、「その方(「人の子」であるキリスト)を信じたいのですが」という切実な応えを見れば、わかります。あらゆる相手の人間としての境遇をいっしょに引き受けて、二人三脚で成長しつつ前進するキリストは、相手との親密な関わりに徹するがゆえに「人のなかのまことの人」(人の子)として歩みつづけるのです。
ヨハネによる福音書9章1-13、28-38節
2026年3月15日

