復活節第4主日

イエスが自分のことを良い羊飼いにたとえるとき、彼の心にはいつも“ダビデの詩(詩編23)”が響いていたと思う。「主は羊飼い、主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」と。羊と羊飼いは、当時の日々の生活に欠かせないものであった。
羊飼いの仕事は人々の生活の一部となっていた。旧約聖書における神のイメージは、イスラエルの民の羊飼いであった。イスラエルのリーダーたちも羊飼いにたとえられていたが、預言者たちはそのリーダーたちが偽りの羊飼いであると、たびたび非難している。そして、来られるべきメシアは理想的な羊飼いとして描かれている(エレ23参照)。
ヨハネ福音書では、イエスが自分のことを良い羊飼いにたとえるが、父なる神こそがイエスの良い羊飼いのモデルであった。羊飼いは羊を名で呼び、彼らの先頭に立って導く。羊は羊飼いの声を知って、聞き分け、羊飼いを信頼し、彼に聞き従う。この「知る」は一方通行の「知る」ではなく、相互的であり、知識的な関わりというより、心からの人格的なアガペの交わりを指している。羊のために自分の命を「捨てる」という動詞は原文では、「置く」という意味がある。つまり、自由と愛をもって、命を「捨てる」ということである。雇人の羊飼いの行動と違う。その違いは、良い羊飼いと羊の「心のかかわり」に見られる。お互いの声を聞き分ける。その相互的な愛の源泉は「父」と「子」の愛の交わりにある。真の羊飼いの心は、ほかのすべての羊にも開かれている。彼らにも同じ愛で関わりたい。福音記者ヨハネは、実際、異邦人もイエスの声を聞き分け、キリスト者になったことをここに記している。最後に、命を捨てることが再び命を受けることにつながっている。それはイエスの死と復活を指している。ヨハネ10章は“解放のビジョン”と呼んでもいい。その解放は、本物の羊飼いイエスとの出逢いから生まれる。“イエスに出逢って本当によかった、幸せ!” 彼は常に、愛の交わりで私たちを知り、導き、私たちに本物の命を分け与え、ご自分の命を捨てるほどの愛で、死と災いから守ってくださる。

ヨハネによる福音書10章11-16節

2021年4月25日