聖霊降臨後第21主日
多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負うしもべ。相手の可能性を信じて身を捧げるしもべの誠意がみなぎります。そのようなしもべの所業を神は大切に受け止めます。預言者イザヤは「苦しむ神のしもべ」の姿を宣べました。その誠実なしもべとして、全身全霊を賭して生きたのがイエス・キリストでした。
パウロは「神の子イエス」の偉大さを確認しています。イエスは私たちをあわれみ、弱さをともに背負ってくださいました。絶望の状況で生きる私たちと同じ境遇を身に受け、ともに生きてくださるへりくだりの姿こそがイエスの偉大さなのです。この協働者としてのイエスの近さに感謝して、大胆に頼ることが私たちにできる生き方なのです。
イエス・キリストは相手に近づいて相手の境遇を身に受け、ともに生き抜く「人の子」です。人びとのなかで最も人びとの心を理解しているという意味での「人のなかの人」、つまり「まことの人」として、多くの人の身代金として自分のいのちを捧げるためにこそ来たのです。相手を助け出すことだけを望んで、徹底的に尽くすイエスの激しく深い愛は、まさに神によるイスラエルの民へのいつくしみの奥深さを、最高度に上昇させた姿として実現しています。
しかし、イエスの弟子たちは自分のことしか考えていませんでした。相手のためにいのちを賭けることが、いまだにできていない弟子たちの浅はかさは、惨憺たるものです。自分の出世をもくろみ、なりふりかまわずイエスに頼みこむ弟子の姿はぶざまです。その自己中心的な姿を目の当たりにした他の弟子たちも、腹を立てはじめます。実は彼らも偉くなりたいという願望があったので、抜け駆けされたことが許せなかったのです。相手を支え、いのちを捧げるイエス・キリストと、愚かな弟子たちとの対比があざやかに描かれているのを読むときに、私たちもハッとさせられます。
「相手のもとへと向かうイエスのまごころ」が今日の三つの朗読箇所をとおして伝わります。
マルコによる福音書10章35-45節
2021年10月17日