聖霊降臨後第22主日

エルサレムへの道の最後の行程で、エリコの町を出て行こうとしているときに、イエスはバルティマイという盲人に出会い、視力の回復を与える。バルティマイが自分のおかれた“暗いところ”からナザレのイエスの噂を聞き、信仰の心でイエスとの出会いを求める。彼は目が不自由で、群衆に遮られているにもかかわらず、まわりの“見える人々”より、イエスの本性が“見えている”。孤独と長い暗闇の中から、光を求めていたバルティマイに新しい出会いのチャンスが訪れた。彼には「ナザレのイエスという先生がお通りだ」という噂を聞いていたので、群衆の騒ぐ声と興奮でイエスと分かった。盲人はこの先生イエスに「ダビデ王の子孫から出てくるメシア・救い主」を重ね合わせる。彼は叫ぶ。「主よ、わたしを憐れんでください」。無力と苦しみの体験から生まれた彼の物乞いのことばは、イエスの前で本物の救いを求める叫びに変わっていった。人々には、邪魔で迷惑な叫びにしか聞こえなかったバルティマイの声がナザレのイエスの心を強く打つ。イエスの憐みは周りの人々の妨げを退け、必死に救いを求めるバルティマイとの出会いを望み、彼を癒す。盲人の強い信仰に心を打たれるイエス。イエスは立ち止まって、盲人の救いへの叫びに応え、彼と出会う。イエスに呼ばれて、彼はすべて(の上着)を捨て、大喜びのうちに、イエスとの出会いに向かって行く。イエスは「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。イエスとの出会いにおいて、「見えるようになりたい人」は「本当の視力」を与えられる。イエスはここで、この人の自分への信頼が救いにつながっていることを強調する。信仰の目で見えるようになった人はイエスの道に従うことができる人になる。イエスとの出会いによって癒されたバルティマイは“イエスの道に従う”弟子でありたいと願う私たちの“モデル”になる。マルコは、盲目や物乞いの暗い世界の道端に座っているバルティマイという人の話において、イエスに従っている弟子たちの「心の盲目」のいやしを暗示している。

マルコによる福音書10章46-52節

2021年10月24日