聖霊降臨後第12主日
神の国における分かち合いは、祝いの席、宴会や婚礼の宴にたとえられる。互いに食べ物や飲み物を分かち合うなかで、命と喜びをも重ね合わせ、満たし合う。厳密にいえばしるしや力の業の部類に入らないが、イエスの公的活動における「いやしのしるし」として重要な意味をもっている。つまり、食卓の交わりは見える形でのイエスの解放と憐れみのシンボルであり、イエスの食事に招かれた人々にとっては「福音」(喜びのニュース)」であった。
ルカ福音書において、イエスが弟子たちや他の人々と一緒に食事している個所、または食事の交わりについて述べている個所を数えてみると、14個所にも及ぶ。ルカは”食事”という枠の中で14:1-24のすべての話をつないでいる。当時、ある人と一緒に食事をすることは、その人を受け入れるしるしであり、ある人と食卓を共にするのを拒むことは、その人との交わりを拒否するしるしであった。他の多くの古代社会と同じように、ユダヤ人の社会でも食卓の交わりは深い意味をもっていた。それはただ単に食べ物や飲み物を分かち合うだけではなく、お互いの喜びと悲しみ、命と生活の交わりまでもを立ち会うという奥深さを意味した。14:11はこのたとえが単なるテーブルマナーで終わりはしないことを教える。どのように振る舞うことが幸いを得るか、つまり神の国に招き入れられることになるかを説く。
「友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない」というみ言葉はルカ6:33を連想させる。言い換えれば、「自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか」ということである。だから、イエスは「むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と教える。神ご自身が大宴会に招かれるグループと同じ人々――貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人――である(ルカ14:21参照)。ルカが福音の”平野の説教”で述べているように、「お返しできない人々」を呼ぶことによって、何もあてにせず、お返しを求めない「いと高き方の子」となる。「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい」(ルカ6:34-36参照)。
ルカによる福音書14章1、7-14節
2022年8月28日