聖霊降臨後第13主日

日本の漫画作品に『鬼滅の刃(きめつのやいば)』があります。この主人公、竈門炭治郎が鬼と戦うときに「全集中 壱の方 水面斬り」という言葉を使って技を出します。彼が【全集中】と言って鬼と戦うときには、目の前の鬼を倒すことだけに集中し、他のことは一切考えていません。彼の言葉は、もしかしたら私たちの歩みの中でも共通することなのではないでしょうか。
きょうのみことばは、イエスがエルサレムで御父のみ旨である「死と受難」へ向かう旅の途中で、ご自分について来た人々に「弟子になるために何が必要か」ということを伝える場面です。
イエスは、「……わたしの弟子ではありえない」という言葉を繰り返し使われます。イエスについて来た人たちが、ご自分の弟子として生活するためには、「家族、そして自分の命さえも憎まなければならない」こと、「自分の十字架を背負わなければならない」こと、そして「自分の持ち物を一切捨てなければならない」という3つの条件を示されています。
私たちは、「……自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」という言葉を聞くとき、いつも「アガペの愛」を人々に伝えておられるイエスの言葉だとは信じられない、と思ってしまいます。もちろん、イエスは、家族や自分の命を「憎む」ということを言われたのではなく、福音を伝えるためには、たとえ家族であっても、また自分の命でさえも犠牲にしなければならない、と言われているのではないでしょうか。
さらに、イエスは「塔を立てる人」「戦(いくさ)をする王」のたとえを話されます。このたとえ話の中に「まず腰をすえて考えてみないだろうか」という言葉を共通して使われています。この言葉は、「塔を建てる」こと、「戦(いくさ)をする」ことだけに【集中する】という意味もあるようです。ですから、イエスは、ご自分の弟子になるためには、自分の持ち物(宣教に関係がないもの)を一切捨ててついて来なさいと言われているのではないでしょうか。私の歩みはどうなのでしょうか。今一度、振り返ってみることができたらいいですね。

ルカによる福音書14章25-33節

2022年9月4日