聖霊降臨後第8主日

生育の途中の「麦」と「毒麦」は形も色も似ており、区別がつきにくいようです。しかし、刈り入れの時を迎える際には明らかな差が出てきます。それゆえ、「刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』」という主人による指示が描かれているわけです。
私たちの人生においても死ぬまでの歩みは未知数であり、私たちが善人か悪人かは明確に決められません。たしかに、人生の歩みにおいて、私たちが正しく生きるのか不正のままで過ごすのかは、刻一刻と変化しつづけるのであり、自分の存在の仕方が即座に善人か悪人かは簡単には決められないわけです。死ぬときの最終的な状況において、私が善人か悪人かの最終的な裁定が神によってくだされるのでしょう。いまだけを見て早計な判定をくださないのが神の慈愛深さです。神は、相手の状況を忍耐強く見守り、相手が自発的に良質な人生を歩む努力をするのかどうかを任せつづける、期待感をともなった親心を示すものなのでしょう。私たち人間もまた神の慈愛深さを忘れずに、神と同じ姿勢で人生の歩みをたどる必要があります。私たちひとりひとりは、神によって期待されて、いのちを授けられて、神の子どもとして活かされているからです。それゆえ、物事を早計に判断せずに、じっくりと最期まで見守りつつ、忍耐強く相手を支えることが肝要となります。そのことは、まさに旧約聖書続編の「知恵の書」にも明確に書かれています。次の通りです。「神に従う人は人間への愛を持つべきことを、あなたはこれらの業を通して御民に教えられた。こうして御民に希望を抱かせ、罪からの回心をお与えになった」。
しかしながら、人間はいつでも正しく生きられるとはかぎりません。思わず降りかかる他所からの邪魔や誘惑を受けて心を動揺させてしまい、不正の道へとずれてしまう危険性をかかえているからです。神よりも自分の都合を優先して、自分勝手に生きるほうがよいと思い込むことがあるわけです。そこで、使徒書でで聖パウロが述べているように、聖霊の働きによって支えられることが欠かせないのです。「どうか私の心を照らしてください」と聖霊に願うことが必要になります。

マタイによる福音書13章24-30、36-43節

2026年7月19日