聖霊降臨後第9主日
イエスは「天の国は次のようにたとえられる」と話されます。「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」この人は、日常の何気ない生活の場で宝を見つけます。偶然何の理由もなく、自分の全てを手放しても良いほどの宝を見つけるのです。私たちも祈りや出来事の中で、突然、何の脈絡もなく、気づきや恵みをいただき、内側から湧き上がる喜びを感じる不思議な体験をしたことがあるのではないでしょうか。あの喜びの感覚は「天の国のたとえ」と似ているのかもしれません。良い真珠を見つけている商人は、高価な真珠を一つ見つけ、持ち物をすっかり売り払い、それを買います。それを思い巡らしていると、私の中に「いくら祈り求めていても、見つからないことがあるな」という考えが起こりました。更に数日思い巡らしていると、「私が見つける」のではなく、「神が与えてくださるのだ」と腑に落ちてきました。またこの二人は、どうして見つけたものが全てを手放してでも手に入れるほどの宝だと分かったのでしょう。それを見つけた時、おそらく彼らは冷静で賢明な行動がとれたのでしょう。私はこの二人の内に、イエスを信じる確かな場所があったのではないかと感じます。次に「網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める」とあります。きっとこの網の中には、正しい人も悪い人も入っているのでしょう。私には、主イエス・キリストの、全ての人を集めたいという深い愛、慈しみ、憐れみが感じられます。また人々がいっぱいになった網を岸に引き上げ、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる様子は、自分の内面にある感情や思考を主イエス・キリストと共に良いものと悪いものに識別している人に観えます。
新約の時代を生きる私たちは、毎日の御言葉を祈ることによって、「天の国を学んだ学者」になれるのではないでしょうか。日々生きる中で、主イエス・キリストを見つけ、聞き分け、主と共に生きる時、現実世界では苦しみの中にいても、身体の内側から湧き出る確かな喜び、すなわち「天の国」に触れることができるのだと思います。
マタイによる福音書13章31-33、44-49節a
2026年7月26日

