降誕後第1主日

クリスマスおめでとうございます。

「家族」という言葉を聞くと皆さんはどんな気持ちになるだろうか。温かい気持ちになるだろうか。それとも、辛いことを思い出すきっかけになるのだろうか。おそらく「家族」という言葉に込められた意味内容は千差万別、百人に語ってもらうなら、百通りのイメージが出てくるのではないかという気がしている。現代、それほどまでに「家族」という言葉は複雑さを呈している。「家族」について少し思い巡らしてみたらどうだろう。
ヨセフ、マリア、そして、幼子イエス。どこから見てもありきたりの家族の姿。初めての男の子は律法に書いてあるように主に聖別される。だから、夫婦は幼子を連れ、神殿にお参りに行ったのだ。
儀礼としては、産婦のマリアの清めのためと幼子イエスの奉献のため、その両方の意味が込められている。ルカ福音書には「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽のいけにえ」と記されているので、レビ記の後半にみられるように「産婦が貧しくて小羊に手が届かなかった」と考えることもできる。
マリアにとっての汚れからの清めと、生まれたばかりの幼子の奉献———。子どもが一人この世に産まれるという出来事は、母親にとっても、子どもにとっても、神の手の中で起こっていることなのであり、神との関係なしには考えらないという、当時の人びとの宗教観を思い巡らすことができる。つまり、家族とはすべて聖なる家族なのである。血縁関係は、神との関わりにおいて祝福され、清められなければならない。
やはり、一年の終わりに神にむかって目をあげよう。家族が神との関係から背を向けてしまったら存在すらできなくなる。ただ、辛く、苦しい、縛りの関係性でしかなくなる。しかし、どの家族も聖なる家族となる可能性もある。ヨゼフとマリアが経験したように、子どもを通してこの世に開かれていく。救いに開かれていく。閉じられていない……家族。

ヨハネによる福音書1章1-18節

2023年12月31日