「永遠の春の訪れ」

今年は大変遅く私たちの希望のしるしであるイースターを迎えることになりました。桜の花は散ってしまいましたが、一年で最も華やぐこの季節、教会は主の過越を記念しお祝いします。福音書が告げている主の復活は、この季節私たちを包む春の訪れのようです。春は突然やって来ます。ある日気がつくと、春に包まれているのです。春はゆっくりと近づいていると分かっていても、その日が来るまでは余計に寒さがつのります。

そして春の嵐が来ます。そんな日々の中で、気がつくと、春は突然に私たちを包むのです。福音書が告げる主の復活も、そんな春の訪れのように感じられないでしょうか。

エマオに向かった二人の弟子は、道連れになってくださったイエスをイエスだとは気付きませんでした。マグダラのマリアもそうでした。 彼女は背後から声をかけてくださったイエスを園丁だとばかり思っていたのでした。イエスはそこに来てくださっているのに、彼らはそれに気付かなかったのです。

エマオの宿で、食卓に着かれたイエスがパンを裂き与えてくださったとき、背後に立たれたイエスが「マリア」 と呼びかけてくださったとき、春は突然に訪れたのです。自分たちに訪れたその春に包まれたとき、彼らはもはや復活のイエスのお姿を必要とはしないかのようです。彼らを包む春は、復活のイエスによって もたらされたことが彼らには分かっていたからです。

春の訪れは、私たちがそれを実感する前に、ニュースとなってもたらされます。エルサレムの弟子たちにとってもそうでした。けれども、 エマオから戻って来た弟子たちの話を聴いても、マグダラのマリアの知らせを受けても、彼らの部屋は内側から鍵がかけられたままでした。 春の訪れは外からもたらされるのです。閉じられた扉をものともしない春の訪れの中で、弟子たちは復活の主のいのちの息吹を受けたのです。

このときから彼らは、繰り返される季節の移ろいの中で、彼らが体感した永遠の春の喜びを告げる者たちとされていったのです。 復活日の遅かったこの春、梅も桜もとうにその季節は終わりました。 けれども、私たちの心が外側から開かれるとき、復活日の聖餐式に集う私たちは永遠の春の花々に包まれるのです。

2022年4月17日発行
西宮聖ペテロ教会 教報ともしび 第175号