「“いのり”と“みのり”」

今年の夏は厳しい暑さが長期間続いています。でも朝晩は、少しずつ秋めいてきました。秋といえばすぐに“みのり”という言葉を思い出します。“みのり”といえば、語呂のせいか“いのり”という言葉が浮かんできます。

先日、郊外でのどかな田園風景を目にし、幼いころを思い出しました。私は幼少時代、奈良県の五條市で育ちました。今と違って当時は田んぼに囲まれた自然がまだたくさん残っていました。カエルの鳴き声が子守唄になっていました。このような光景を思い出していますと「みのるほど頭の低き稲穂かな」ということわざを思い出します。

秋になり、実が入り、ふくらんでいくにつれて、稲の穂先が下ってきます。それが頭を下げている人の姿に何か似ています。空っぽでつっ立ったままの白穂は、毅然として見えますが、なんだかむなしく感じ、“いのり”を拒否しているかのように映ります。

“みのり”の時を迎えるためには、種が蒔かれ、苗のうちから育てられ、移し植えられなければなりません。夏の日照りに耐え、雑草や害虫に勝ち、台風を通り越さねばなりません。そして、涼しくおだやかな秋の季節が必要なのです。時がかかり、真心が必要です。

“いのり”の種は神さまのお恵みです。これはすべての人の心に豊かに蒔かれています。けれども時間をかけて、その時、その時の決断や回心によって新たにされなければなりません。困難に耐える忍耐、誘惑に打ち勝つ勇気が必要になってきます。と同時に、自分の中の神と対面し、心の静けさの中で、よくよく考えなければならない時を持つ必要があります。

このようにして初めて“いのり”のお恵みが“みのり”をもたらしていくのでしょう。

私たちの働きが空しく“みのり”が少ないと嘆かざるを得ないのは、“いのり”が少ないからではないでしょうか。

この秋も“みのり”のない穂がここかしこで風に揺れていることでしょう。

“いのり”の知らない私たちの心の空しさのシンボルにならなければよいのになあと思います。

『神は、御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです』使徒言行録14章17節)。

2022年9月18日発行
西宮聖ペテロ教会 教報ともしび 第176号