聖霊降臨後第6主日

私たちは、時々周りの人に対して、「先入観」をもったり「レッテル」を貼ったりして、本当のその人の【良いところ】を見逃す傾きがあります。例えば、「あの人は、怒りっぽいから」とか「あの人は、優しすぎてちょっと」というように何かしら【フィルター】をかけて相手を見てしまいます。さらに厄介なことには、このフィルターは一度定着すると、よほどのことがない限り、その人の本質を見つめ直すことができなくなるということです。
きょうのみことばは、イエスが弟子たちを連れて、故郷であるナザレに行く場面です。イエスは、弟子たちを自分が生まれ育ったナザレに連れて行き、マリアや親戚、友人たちを紹介したことでしょう。
安息日には、弟子たちや友人たちや、幼い頃からイエスを可愛がってくれた人たちと共に、会堂に行ったのでしょう。イエスは、久しぶりに帰ってきたナザレの会堂で教え始められます。みことばには、「多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。……姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか』」とあります。彼らは、一応イエスの教えに耳を傾け、【聞き入る】のですが、その後は自分たちが知っているイエスとのギャップに驚いてしまいます。彼らが知っているイエスは大工の子で、とてもこのような立派な教えや奇跡を行う【人】ではない、ということだったのでしょう。残念なことに、ナザレの人たちはイエスがあまりにも身近すぎてつまずき、本当のイエスの姿である【神の子】として見ることができなかったのです。イエスは、ナザレでは少数の病人に手を置いて治しただけで、その他の奇跡を行うことができませんでした。しかし、人々があまりにも不信仰であることに驚かれ、奇跡を行うことがおできにならなかったのです。
「先入観」という【フィルター】は、その人の中におられる【イエスの姿】を見逃す危険性があるのではないでしょうか。私たちが【フィルター】を外して、身近な相手の中におられるイエスの姿、イエスの働きに目を向けることができたらいいですね。

マルコによる福音書6章1-6節

2021年7月4日